信頼できますか?3
「聞いたこと」を信じすぎると危ない? ― 万博のデマと学びにおける“信頼”の話
大阪万博。その象徴ともいえる「大屋根リング(リング型大屋根)」をめぐって、最近、SNS上でこんな話が広まっています。
「屋根がゆがんでいて危ないらしい」
「使われている木材の大半が外国産で、日本の資源が活かされていない」
といった内容です。
こうした話を目にして、「ああ、やっぱり問題があるのか」と感じた方もいるかもしれません。
しかし実際には、このような噂の多くは事実とは異なります。
大屋根リングの「ゆがみ」は、実は設計上あらかじめ意図された形状です。構造力学を活かした合理的なデザインで、計算されて作られているとのことです。
決して「施工ミス」や「歪んでしまった」ではありません。
そして、木材についても実際には約7割が国産材であり、外国産材はむしろ少数派です。
これはまさに、「聞いたことをそのまま信じてしまった結果、誤解が生まれてしまった」典型例です。
このような、本当かどうかわからない話が多く広がると、人々の学びにはどのような影響がでるのでしょうか?
そこで、今回もデイヴィッド・デステノさんの『信頼はなぜ裏切られるのか 無意識の科学が明かす真実』で「信頼が学習に与える影響」について学んでいきたいと思います。
情報は「観察」より「聞く」ことで学ぶ
私たちは普段、学校でも、家庭でも、そして社会に出てからも、「誰かから聞く」ことで学びを得ています。
とくに子どもにとっての学習は、観察や経験よりも、「人から教わる」ことが中心です。
言葉を通して学ぶというのは、人間にとって非常に高度な能力であり、それによって知識を蓄積していけるのです。
人間は進化の過程で、「誰かから学ぶ」ことに特化してきた生き物だとも言われています。その一方で、「誰の話を信じるか」を間違えてしまえば、間違った知識を身につけてしまうというリスクもあります。
たとえば、SNSで「万博の屋根がゆがんでいる!」という情報を、信頼できるかどうかわからない匿名アカウントから見かけて、それを鵜呑みにしてしまったとしましょう。
自分で現地を観察したわけでも、専門家の意見を聞いたわけでもないのに、「真実」だと思い込んでしまう。これでは、本当の意味での学びとは言えません。
「誰から学ぶか」が学びの質を左右する
実は、教育や心理学の分野では、「教えてくれる人との関係性」が学習にどれだけ影響を与えるかという研究が数多く行われています。
おもしろいことに、「先生のことをどれくらい“好き”か」は、学習の成果とはそれほど関係がないことがわかっています。一方で、「先生をどれくらい“信頼”できるか」は、学びの質に大きく影響するという結果が出ているのです。
この「信頼」とは、単に「話しやすい」とか「優しい」といった印象だけで決まるものではありません。
信頼とは、誠実さと能力の両方によって築かれるものです。
- 誠実さ:その人が適切なことをしようとしているかどうか(=意図)
- 能力:それを実行できるだけの力があるかどうか(=実力)
この2つがそろって初めて、「この人の言うことなら信じられる」と思えるようになります。
つまり、「自分のためを思ってくれていて、しかも正しい知識やスキルを持っている人」こそが、信頼に値する人物なのです。
人類は「信頼できる相手から学ぶ」ように進化してきた
進化心理学の視点から見ると、「誰から学ぶか」を慎重に選ぶという行動は、生存戦略の一つでもありました。
たとえば、毒キノコを食べてしまうと命を落とす可能性がある環境で、「それは食べても大丈夫だよ」と言う相手が信用できるかどうかは、まさに生死にかかわる問題だったのです。だからこそ、人間は「誰が誠実で、誰が能力があるか」を見極めようとする傾向を進化的に獲得してきたのです。
これは現代にもそのまま当てはまります。
SNSやネット上には、知識や意見があふれています。
しかしその中には、誤った情報や恣意的な意図で発信されている内容も少なくありません。
私たちは、その情報の“中身”だけでなく、“発信者の信頼性”というフィルターを通して見極める必要があります。
それができてはじめて、「自分の学びを誤らせない」力を身につけることができるのです。
「学ぶ」という行為
学びとは、単に情報を受け取ることではありません。「どの情報を信じるか」「誰の話に耳を傾けるか」という選択の連続です。
特に、子どもや若者にとって、信頼できる大人の存在はとても重要です。その人がどれだけ誠実に、どれだけ確かな知識を持って向き合ってくれるか。その関係性の中でこそ、本当の学びが起こるのです。
万博の大屋根の話から見えてくるのは、私たちが思っている以上に、「聞いたことを信じる」力が強いということ。そして同時に、「何を信じ、誰を信じるか」が、私たちの学びの質を決めているということです。
情報があふれるこの時代、学びに必要なのは、教え方のうまさではなく、信頼に値する相手を選ぶ目なのかもしれません。
